2008年7月28日
「メディアをめぐる7つの話 01:写真 多木浩二」を聴いて
川口メディアセブンの企画「メディアをめぐる7つの話」の連続トークセッション「01:写真 多木浩二」を聴きに行った。備忘録としてメモした内容をまとめる。
————————– ここから ————————–
畠山、デマンドの写真作品
どちらもなんとなく既視感のある街の風景のような作品なのだが、空虚で白々しい雰囲気がある。何を撮りたいのかわからない。それもそのはずで、両名の作品は自分で街や建築の模型を作り、それを写真に撮っているからである。意識的に一見なんでもないような、つまらない街の風景写真にしているのである。それゆえに我々の認識を揺るがし、写真の表現行為を台無しにするような作品となっている。
リアリティーの逆転
かつてはカメラの前に何かがあった。写真は現実を支持していた。
今や現実は問題ではなく、写真が現実を支持しているとは限らない。
不連続な点
そもそも写真が発明される以前に、写真が生まれるような知覚的世界に我々は住んでいた。ルネサンスによって、遠近法が発見され、世界の知覚の変化(不連続点が生じた)があった。遠近法に慣れていたので、写真が発明されたときに、それを容易に受け入れることができたのである。
全てのメディアのデジタル化により、「写真があるので人間がある」というような写真の確かさはなくなり、写真は重要なメディアではなくなった。今後写真には人間的な視線はなくなり、人間的ではないまなざしになっていく中で新たな不連続点が生まれるような気がする。
加速する歴史とアーカイブを残したいという意志
歴史の流れはすべてを空虚にし、無に向かっている。それとぶつかりあうようにアーカイブを残したいという意志がある。写真とは記憶しようとする意志のひとつであるのではないだろうか?
メディアテーク(メディアの棚)を使いたいという意思は生命の力がもたらすものである。また、メディアテーク自身がメディアテークを破壊してしまうということも認識する必要がある。
まとめ
写真がメディアによって無になっていくことを実感することが、写真とメディアを考えることである。その無になって行く流れを直視し、過去に戻ろうとしたり、ノスタルジーに浸ったりすることなく、現実の「ギラギラしているメディア」のなかで、生命、人間性をあえて問うことが重要で、そういう写真家も出てきている。しかし、それを潰してしまうような力をメディア(もちろん川口メディアセブンを含む)が内在していることを忘れてはならない。
————————– ここまで ————————–
郊外の図書館でのトークセッションとは思えないような、メディア(もちろん写真も)の本質的問題点を容赦なく切った濃い内容でした。最後の方で「スライドを流さなければよかった」とおっしゃり、語りたかった内容が特定のイメージに固定化されたくない様子でした。ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」(多木さんによる解説本がある)にも軽く触れましたが、現代のメディアの状況は、今では大きく変化していると考えていらっしゃるようでした。
多木さんは「『ギラギラしているメディア』のなかで、人間性をあえて問う写真家も出てきている」とおっしゃったので、たとえばどんな写真家か?と質問させていただいたのですが、具体的な写真家の名前はお答えせず、にそういった写真家に気付いて欲しい、見つけて欲しいような感じでした。
また、「私は写真を撮りません」とおっしゃっていましたが、私の手元には「建築家・篠原一男 幾何学的想像力」(著者:多木浩二、青土社 2007)があり、篠原さんの建築を撮っていらっしゃいます。
次回、「02:印刷 松田行正」も面白そうです。
今日の写真
近所の店舗什器工場がいつの間にかただの医療品倉庫になっていました。舗装された犬走りには雑草が生え始めていました。