2005年12月20日
たまゆらの女(ひと) その2
その1での友人と私の会話は、映画からずれていったり、また戻ったりを繰り返した。ここでは映画と関係のない会話は省略し、話を進めることにする。
「まあ内容はともかく、その女と詩人の恋愛物語なのね。ふたりはどのように出会うの?」
「女はダンスパーティーで詩人と会ったんだ。変なパーティーなんだけどそれはいいとして、そのとき隣に座っていた詩人からもらった詩に心を奪われてしまい、遠くに住む彼に会いに行く」
「で、付き合うようになるのね」
「そういうこと。しかし彼女の愛が強すぎて、詩人にはそれがだんだん重荷になってしまうんだな。汽車で10時間も掛けて週2回も通ってくるし、彼の詩集の出版に尽力したりとかね」
「よくそんなに時間を作れるね。彼女は何をしているひとなの?」
「陶器の絵付師・・・・」
陶器は硬く半永久的に長持ちするが割れやすい。
何度か映画の中で彼女の作品が割れる。
詩人は青磁を『君の肌ようにやわらかい』と詠む。
「映画の中で陶器は彼女を表すのね」
「まあ、そうなんだろうな。物語を予感させもする。話が進むにつれてだんだん彼とのすれ違いが広がっていくんだけど、彼女は通い続ける。そして心労と疲れから、列車の中で倒れてしまう・・・」
「私みたいね」
「君の場合は倒れたわけじゃないでしょ?」
「心のせいかな・・・・でも身体もね」
列車内で倒れたときに知り合いになった獣医と一緒に仙湖を探しに行く印象的なシーンがある。仙湖というのは、詩人の彼が彼女のために書いた詩の中に詠われる美しい湖なんだよ。女はその詩をとても気に入っていた。しかしその湖は存在しないことがわかる。
「詩人はウソをついていたってこと?」
「そういうわけではないけど、それが彼という人間であるってことだろうな。彼女は詩人に裏切られたような哀しい気持ちになってしまう。あると思っていたものが実は無かったからね」
「形あるものを持たないのは不安よね」
言葉と異なり、詩は社会性というか客観性というか独立性を持つ。プライベートな関係の中で送られたとしても、ふたりのあいだで交わされる会話と違い、詩はふたりの手から離れた存在なのだ。その詩は美しく愛に満ちているが、そこに描写されていた湖は虚構だった。彼の愛もそうなのだろうか?
「これと逆の立場のシーンも印象的なんだ。詩人は女に尋ねる『僕が好きなの?それとも僕自信?』とね」
「女はなんて?」
「『私が好きなのは詩人なの』と答えるんだ」
「どういうこと?」
「おそらく女は男自身も、男の書く詩も両方とも好きなんだ。どちらも本当に愛している。しかし詩人は素直にそうは取らない、というより取れない。この感覚わかるなぁ」
まだ自分の詩は世間に知られていないかもしれないが自信はある。女は男の詩に惹かれた。だが男として、人間としてはどうなのか?人は自信の無いところこそ本当は愛されたいのである。
「確かさを求める恋愛は終わりが近いのかな?」
「そうとも言えるね」
「そんな時は自分のことも、相手のこともわからなくなってしまうよね。だから?」
「そうなんだろうな・・・・この映画で恐ろしい言葉がでてくるよ」
人を愛することは自分を鏡に映すことだ
(もう一回つづく、と思います)
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今日の写真
夜中のペットショップ。金魚はまだ起きていました。