2008年6月の記事

2008年6月13日

グレン・マーカット講演会

菅浦
昨日12日(木)、オーストラリアを代表する建築家グレン・マーカットの講演会に行って来た。場所は有楽町のよみうりホール。大変密度の高い講演内容で、マーカット氏は2時間休むことなく、ミネラルウォーターも蓋を開けただけで、飲まずに話し続けた。

オーストラリアの現代建築に興味を持ったのはTOTO通信の1998年1号の特集「風土の中のオーストラリア住宅」を読んでからである。昨年は、a+u誌2007年8月号でも「オーストラリア--大地に暮らす」という特集も組まれ、オーストラリア建築が日本に紹介される機会が増えてきている。オーストラリアの建築といえば、世界遺産でもあるシドニーのオペラハウスが大変有名だが、これはデンマーク人のウッツォンがコンペで勝ち抜き、設計した建物であることもあり、ここで言うオーストラリア現代建築とは少々異なると思う(もちろん影響はあると思う)。

マーカットの作品は、モダンで一見ケース・スダディ・ハウスに似ているが、デザイン様式としてモダンやミニマルが趣味的に選択されていることは断じて無く、CSHのようにハイソ感があるわけではなく、今後の新しい生活(CSHはほとんど初めて核家族のために建てられた住宅であり、ここでいう新しい生活とは、個人的な印象ではなく、社会全体が(良い方向に)変革していくだろうという期待感みたいなものだと思う)を予感させるものとも違う。

一般的には、建築物は一度建つと、長い間そこに存在すると思われているが、オーストラリアにおいては、その広大なランドスケープによって、建築は飲み込まれてしまい、建築的な時間のスケールなどウルルと比較したら認識できるかどうかさえ危ぶまれる。だから彼の地の建築家たちは、自然をコントロールしたり、永遠と定着することを信じているように建築を表現するよりも、自然と対峙しながらも逆らわず、性能を十分生かせる場所にそっと置かれた繊細な機械のような建築を創るのかもしれない。

さて講演の内容に移る。

オーストラリア大陸の大きさ、気候(6つの季節)、植生、ランドスケープに関すること、そして環境とサスティナビリティを考慮し、材料や工法を選んで設計することの重要性について、かなりの時間を割いていた。また子どもの頃に自然と接することはとても重要なことで、そこで得られた体験と知識は、将来遭遇するさまざまな問題を解決することに役に立つと言っていた。

サスティナブルな都市や建築の例として、アボリジニの砂漠と熱帯地域の住宅、ベドウィンのテント、ドブロブニク、モロッコの日干し煉瓦の街、アメリカ先住民の家、ミコノス島の石灰塗りの住居が取り上げられた。他の例として、1930年代オーストラリアでは、辺境に家を建てるために、ユンカーという飛行機で建材を運んだのだが、その頃ユンカーのペイロードに合わせて、軽量な材料で効率よく建設する技術があったことが述べられた。

マーカットの作品解説のスライドも大変面白かった。

マリー・ショート邸の棟がカーブは、バナキュラーな建物へのオマージュだけではなく、妻面からみると翼形になるので、流体力学的に風が剥離を起こしにくく、棟の気圧が下がることにより、効率よく自然換気が行われるそうだ。デザイン的にちょっと(かなり)惹かれるだけでなく、この理論は流体力学を学習した者でないと気がつかないし、話を聞いてもわからないと思う。(屋根が飛ばされないか逆に心配でもあった)

シドニーのマーカット=ルーウィン邸では、DPGを使用したミニマルなオフセット縦軸回転窓を建設業者に反対されたこと、11月にジャガランタが満開になること、93年にエミリー・ウングワレーの絵を運よく手に入れたこと、ルーウィンとは別室のスタジオにいることなど、自邸であることもあり作品のことより氏のプライベートを語っていたことが印象に残った。

一度見ると忘れられない、あの有名なシンプソン・リー邸には、ドレンチャーが備えられていて、雨水を溜めた池の水を循環させるようになっていることはこの講演で初めて知った。オーストラリアは山火事が多く、実際、溜め池のおかげで、リー邸だけでなく、近隣の2件も火災を免れたとのこと。

マーカットの作品には、軒の深さと、格子によって、日射を調整したり、プライバシーを調整する機構が取り入れられているものが多いのだが、日本の格子文化に言及して「30年前に日本に来ていたなら、こんなに努力して格子を研究しなくても良かったかもしれないが、ここまで極められなかったかもしれない」というようなことを言っていた。

あと印象に残った言葉は、マグニー邸のスライドの時だったと思うが、「オーストラリアのランドスケープに合ったスケールに計画することが難しい。合っていないと間抜けに見える」と言っていたことだ。

赤坂のギャラリー・間で開かれる展覧会にも是非足を運びたい。

グレン・マーカット展>>ギャラリー・間

今日の写真
日本のバナキュラーな建築のひとつで集落の入口(出口)にあったもの。滋賀県菅浦。

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2008年6月7日

デカローグ 1話、2話

旧安田庭園

キェシロフスキの作品「デカローグ」1~10話(1988年/ポーランド)が、私の地元川口市メディアセブンで、6月に順次上映されている。昨日は1話、2話の上映があり、観てきた。入場無料で、80席ほどの席は8割程度埋まっていた。

この作品はモーセの十戒をテーマとした10のエピソードからなる、ポーランドで放映されたテレビ映画である。舞台は、郊外の集合住宅群。その集合住宅のあり方や避難階段、廊下、エレベータなどが日本のものとだいぶ違った感じで面白い。

いつの発言かはわからないが、キューブリックが「この20年でこの20年で1本だけ好きな映画を選ぶとすれば、間違いなく『デカローグ』」と言っているらしいので、それだけでも興味をひかれる。私は、10年ほど前に観たキェシロフスキの「トリコロール」3部作「白の愛」が(ジュリー・デルピーも含めて)印象に残っていたので、観たいと思った。

第1話 ある運命に関する物語
大学講師のクリストフは科学的認識がこの世の全てであると考えていて、神を信じない。彼には別れた妻との子どものパヴェルがいる。クリストフの姉はカトリックの信者で、神を信じ、その存在を感じている。パヴェルは父と叔母に愛されている。ある日、パヴェルが、スケートをしているときに、池の氷が割れて落ち、死ぬ。クリストフは教会に行き、祭壇を破壊する。祭壇から落ちた桶の氷を額に当て、嘆き悲しむ。

このストーリーはいろいろと疑問が残り、どう解釈したらいいのだろうか?と思った。というのは、一見、「クリストフは神を信じないから、その罰として、息子パヴェルを奪った」ように見えるからだ。しかし、姉は神を信じており、どうやら子どもがおらず、甥パヴェルを世話し、愛しているのだから、彼女の希望を奪う必要はないだろう。

そもそも神の意志は人間には計り知れないのだから、今私が述べたような感想こそが神に対して不遜であるともいえるが、さらに言うならば、そんなに神が偉大であるのなら、人間の自立した意思が、神の否定を可能にするようにプログラムするだろうか?となる。しかし、そのような考え方は傲慢なのだ。神とサタンの気まぐれにより幸福を奪われたヨブのように、ひたすら信じるしかないのだ。

第2話 ある選択に関する物語
ドロタには、重病で死の淵をさまよっている夫がいる。彼女は、夫の親友と不倫をしており、妊娠している。彼女はもう若くなく、この妊娠は子どもを産む最後のチャンスだと考えている。彼女は、夫が死ぬなら子どもを産み、夫が回復するなら堕胎しようと考え、戦争で家族を亡くした主治医に、夫は死ぬのか治るのかを執拗に訊ねる。医者は「死ぬ」と答え、ドロタは子どもを産むことにするが、夫は回復し、医師に子どもの生まれることの感謝の意を述べる。

1話に比べると、疑問は少ない。なぜなら誰にも死は訪れず、ドロタの希望と反する状況に、事態が変化していくので、宗教的規範が揺らがないからである。しかし現代社会においては、堕胎の自由がある程度認められているし、政治的には女性運動とも絡んできそうなテーマである。そこまで考えなくてもドロタに同情する女性は多いと思う。

今日の写真
両国駅近くにある旧安田庭園です。打合せの帰りに、お土産でいただいた長命寺の3枚の葉の桜餅で一服しました。飛び石が水面ぎりぎりだったので、なんでだろうと思ったのですが、池は隅田川とつながっていて、潮の干満で水面のレベルが変化するのだそうです。

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2008年6月2日

8人の女たち

赤羽の給水塔

映画「8人の女たち」は、ただ楽しむためだけに、昔BS2で放映したときに録画したのだが、なんとなく2回観てしまい、「なかなか深い映画だな」と感じ、母も2回目(以前観たことを忘れていたらしい)を観ているときに、僕がちょうど居合わせて、3回目も観たものだから、もう想い返さないように、ここに記録しておく。

観ようと思った直接のきっかけは・・・・すっかり豊満になったカトリーヌ・ドヌーブを興味本位で見たかったわけではなく、トリュフォーの最後の恋人ファニー・アルダンが出演しているからでもなく、メイド姿のエマニェル・べアールが脱ぎそうな気配を感じたからでもない・・・・とは言い切れない。そんなところがこの映画のいいところである。

ストーリーは、大雪により邸宅に閉じ込められた8人の女たちのイライラから生じた諍いにより進行する。すなわち、女たちが互いに中傷、誹謗、暴露、告白、密告、偵察をし合い、ゴシップとスキャンダルにまみれるのである。女たちはそれぞれ秘密を持っているのだが、ディープな上に、2段構えであり、どちらかというと知りたくもないようなおぞましいものである。たとえば、浮気している上に、お相手は××とか、旦那のお相手をしているんだけど、本当は奥様を恋慕しているとか、妊娠しちゃったんだけど、そのお相手は××などなど。実際、この過剰なインフォメーションが悲劇(喜劇?)へと向かっていく。

実はこの作品は、ミュージカル映画であり、出演者は全員女で、明るく華やかで軽やかである。汚れた女たちの歌う歌詞の内容は、彼女たちを浄化させる。

「幸せは 強く抱きしめすぎると 壊れてしまう」(だったと思う)

ダニエル・ダリューがラストに歌う詩は、箴言にまで高められている。内容とは似ても似つかわない表層、これがこの映画の魅力であり、女の魅力なのかもしれない。

今日の写真
昨日、久々に街歩きをしました。赤羽周辺の団地の給水塔と思われるもので、古いものなのですが、良くデザインされています。似たようなものは他にもありましたが、これは展望台付です。

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